生きる

毎日の頭の中の整理として書いてます、

お前に何がわかるんだ

健康診断の日。タバコも飲食もできない午前中。待ち時間がしんどかった。

やっと3日連続の予定が終わった。よくやったよ本当に。

午前中は自分のマインドがずっと喋ってるので疲れてた。歩き続けたけど、怒ってるラップが心地よかったから自分は怒りを抱えてると思った。これからの人生が退屈で占められた膨大な時間のように思えた。ここ半年くらい持っていたワクワク感は消え失せた。どうせ何をやっても面白くない、と思った。同時にこのネガティブな考えはタバコも飲食もしてないから、と理由づけができた。だから心の中にはいつものルーティンを取り戻せば少しはマシになるかも、という希望があった。バスの車窓を眺めながら、これから例えば外国に行けたとしてもとても面白い人に会ったとしても心に焼き付くような幸せがあったとしても、私は結婚という箱に収められ、やりたいことができないように思えた。今だってそうだ。興味のある人がいても会うことすらできない。これが独身だったらどれだけの人たちと関わりを持つことができただろう。私がいくら誰かに魅力を感じてもその人と時間を共にすることすらできない。それはとてもつまらないことに思えた。人との交流が限定されるなら、その人たちと会う必要なんてそもそもあるのだろうか。外国に行って人巡りの旅をせず何を楽しむのか。ずっと持っていた夢が一気に灰色になり小さくなった。ワクワクしてもそれを手に入れることはできないのだ。

同時に今自分は心がしんどいせいで、男からのvalidationを求めているとも観察している。辛い時に男と話すと大抵冗談を言って笑わせてくれるし、耳馴染みの良い言葉に溢れるので、気分がマシになる。自分が何もしなくても摂取するだけで気分が辛くなくなる。気分が落ちているからそれを麻薬のように欲しているのだと思った。楽になりたいから。でもそれはハイリスクハイリターンで一度その世界に入ると解毒するには時間とエネルギーがかかるし、相手にも迷惑だ。迷惑をかけたことに自分で後で気持ちが悪くなる。

自分の思い通りにならない旦那や男1を責めていた。あまりにも自分が辛すぎて人の気持ちなどどうでも良かった。さっさと離れていって欲しかった。自分を諦めて欲しかった。こんな自分など受け入れなくて良い、さっさと消えろ。勝手に自分の人生を生きてくれ。私は死にたい。お前がいようがいまいがどうでもいい。だってもう死ぬんだから。

旦那に温かい言葉をかけられても、お前にこの苦しみはわからないだろう?私が今何を経験させられてるかお前は一ミリもわからないだろう?わかったような口を聞くな。何が何も考えない方が良い、だ。そんなことはわかっているしできたらもうすでにやっている。お前のアドバイスなど何の役にも立たない。お前の存在は私を楽にはできない。うるさい全てがうるさい。そんなことを思っていた。どれほどが口から出て旦那に伝わったのかはわからない。

午前中は何度かDMの確認をした。もちろん来ていない。ガッカリする気持ちとホッとする気持ちだった。頭は強烈に男1からの注目を求めていたが、あったとしてもその注目は何も意味しないと結論づけていた。ネットの中だけの甘い言葉は私に多大な影響をもたらすが、実態はカラッポだ。彼から例え気分がブチ上がるような一言があってもそれはお伽話の中のお話で現実ではないのだ。失望した。がっがりした。実際DMは何もない。私の推測だが「俺が送ったらまたこの子を動揺させる」と考えてる、もしくはむしろ私のことを完全に忘れてるだけと思っていた。そのどちらも私には全く面白くない。考えれば考えるほどテンションが下がるだけなのに頭はその答えの出ない問いをずっと行ったり来たりしていた。そんな自分のマインドに疲れていた。

tiktokのタロット占いは「あなたのマインドにいる男は今時間を必要としていて、整理がついたらあなたに大きな告白をしてくる」的なことを言ってくる。なんでそんなに私が聞きたくなるようなことをおすすめに出せるのかメカニズムが謎だ。でもそれを聞きながら、んなわけねーじゃんと簡単に膨れ上がる期待を自分で踏み潰している。

例えそれが本当だとしたらワクワクはするが、くっついてくる全ての問題がめんどくさい。ワクワクしてるだけでいられない自分の現実がまた一つ濃い灰色になる。

私は自分を取り巻く環境が幸せそのものを映し出しているとは思うが、実際の自分は幸せを感じられなくなっている。何が悪い誰が悪いとかではなく単純に今は自分の心が幸せを検知せず苦しんでいて、それを無理やりアッパーにぶち上げる何かを望んでいる。それがきっと男1からの大きな一手なのだろう。実際に彼との関係を前に進ませたいのではなく、ただそのアイデアが喉から手が出るほど欲しいのだ。それしか自分の気持ちは明るくならない、と必死になっているのだ。

おととい?かなり失望した。こいつは現実の世界では私を求めておらず、画面の向こう側にいる私をただ求めてるだけなのだ、と判断した。

もう2年、旦那に愛想尽かされても、彼がシェルターになってくれると思っていた。私を守ってくれる男はこの世に列を作って待っている、と大袈裟に見積もることで自信を創出していた。それが今となっては閑古鳥。誰もいない空間にヒューヒューと冷たい風が吹いている。私を求めてくれる男、旦那に対する幸せセンサーを失った今の私にはもう目の前に続く毎日がただの惰性にしか思えなかった。

もともと自分には価値がない、と思っているので、落ち込むのは容易いことだ。

頭がイカれてる、と思い直すことで少し楽になった。別にイカれてる自分で良いと思った。多分周りの人からしてみれば死なれるよりはイカれていたとしても私が生きてる方がマシだろ、と思った。でもこれも結局また自分の人生を自分のためには生きていないのだ。人を主軸に命を決めている。

ほぼほぼもう自分に疲れ切ってるんだと思う。今の自分を好きになることはかなり難しい。自分が楽に生きるためには常に努力を重ねなければいけず、もうすでに楽ではない。楽になる保証もない。いつまでこんなことを続ければいいんだろうと思う。

ただ今日は苦しみに悶えずに済んだのでかなりマシだ。

いろんなことがテキトーにやれて時間が過ぎていったので良かった。

でもまだ男漁りをしたい気分はある。

数日前女友達と話したが、退屈だから刺激が欲しいんでしょ?と言われた。間違ってるとは言わないが、なんでそんな決めつけた言い方をするのかなと思った。私のことを知ったように語るのはやめてほしい。その人だけじゃなく誰に言われても気持ちが悪い。誰も私以上に私を知っている人などいないのだ。その私でさえよくわからないのだから、他人に私のことがわかるわけがない。何でそんなことをいとも簡単に人に出来るのかが意味がわからない。退屈だから?いつお前に私が暇だと言った?勝手に人の日常を決めつけてんじゃねーよ。お前は退屈かもしれないが私と一緒にするな。

持ってるものに感謝しろ、は私が自分に言うのは許されても他の人が私に言うのはおかしい。自分たちが幸せだからそんなぬるいことを人に言えるのだ。相手の環境をよく知りもしないで、そんなことは言うべきではない。自分のフィルターを押し付けるべきではない。

私が違うものを求めるのは私が強欲だからではない。隣の芝生が青いからでもない。ただ単に自分が自分でいられる場所や自分の幸せを探している最中なのだ。変わろうとする私を今の場所で十分幸せじゃない!と箱に押し込むのはやめてほしい。私は未来のワクワクや幸せを求めて良いはずだし、それなしで生きることに何の楽しみがあるのだろう。

確かに幸せを感知しなくなった心は問題だが、それはきっと治療や私のニーズを満たすことが必要な問題で、私が悪いからではない。

未来だけではなく今現在に幸せを感じて積み重ねることが一番大事なのは知っている。

知ったような口を聞くことなかれ。

とりあえず今日も生き延びた自分に◎をあげる。よくここまで生きてこれた。それは私が強いことを意味している。

お疲れ様、おやすみなさい。