生きる

毎日の頭の中の整理として書いてます、

バトル

どうにか生き残ったみたいだ。朝の家事を終えたら急にズドンと脳みそがしんどくなった。脳みそをギュッと縛り付けられている感じだ。

それでも買い物には行った。タバコを買わなければ行けなかった。スーパーにも行って夕飯の材料を買った。

マンションの自転車置き場に自転車を置いて家まで歩いていたら、体全体がだるく足を歩ませるのがしんどくなりゆっくりとしか歩けなかった。

これはやばいサインだ、と思い帰ってきたらもう他のことなどする余裕が何もなかった。

瞑想をした。あと不安を楽にする音声の動画を聞いていて涙を流した。少し楽になったがまだ存在するだけでしんどかった。暗い部屋で脳みそに優しく響く音楽を聞きながら目を閉じていた。脳みそが縛り付けられる感覚はなくったが一部が重くて鈍痛のような感覚があった。だんだんそれが頭痛に変わってきたので鎮痛剤を飲んだ。

こういう時にちゃんとは眠れないのだが、体が温まってきたら意識が遠のいたので1時間くらい軽く意識が遠のくままにした。

そして今。さっきよりはマシになったが、いつもの夜のようには行かなそうだ。また早く寝た方が良いだろう。

 

 

読書していつもの夜みたいにtiktok見てた。👻からはDMが来なかった。そんなもんか。なんか前は「ごめん、昨日DMできなくて」って勝手に毎日送るようになってたイメージだったけど、前とは何かが違うのか。まああんまり深く考えることでもないが。私もエロい話題あんましないし、別に彼に夢中なわけでもないからつまんなくなったかな。でも毎日来ない方が私のメンタルには良い。毎日来るようになるとそれが習慣になって期待したり落ち込んだりしてしまうから。

懐かしいな。👽も2年前は「昨日はDMできなくてごめん」とか言ってたな。

彼らのことはお伽話チームと呼ぶことにした。

不安型愛着障害だけど、女の人にはあんまり障害発揮しない。でもゼロヒャク思考は割とする時があって、「私のことはさほど大切じゃないんだろうね」って何かの言動をきっかけに女性にも思うことがある。でもだいたいトリガーになることを女性はしない。

🌳と🌼が仲良く部屋をホストしてるのを見つけてしまって、なんか気持ち悪くなった。この間は🌳が私を招待してきたのに今回はなかった。「君を思い出して」とか「君と話すのはすごく楽しいから」とかDMしてきたの、何だったんだろうな、と思った。自分が寂しいからそんなこと言ってるだけで、私がどうのじゃなくて自分のことしか見てない気がした。こういう経験があるとそういう言葉の中身の無さを思い知らされる。「遊び行こうって聞いてくるのって恋愛?友情?」って聞いただけで、こういう結果になるんだ、だるいねって感じ。

今日は体調が悪くて人と関わることもなかったし、オンラインになることもなかった。おとといのダメージが今日現れたのだろうか。聞いていた動画では不安や恐怖はあなたに何か伝えようとしてるんですよ、と言っていた。多分ダメージ受けてるから休めって言っていたのかもしれない。

多分人で受けたダメージって人で上書きするのが一番楽なんだけど、それも結局またダメージを運んでくるし、エンドレスなんだよね。だから一人で感情を感じて、人をあてにせず一人でできることを楽しむのが一番安定した健康的な現実逃避だと思う。

そもそも関わりたい人と関わらなきゃいけない人の相手してるだけで良いはずだよね。そんな不特定多数の人のベビーシッターする必要は無い。

私の場合は私の面倒を見れるくらい心に余裕のある人と関わるのが良いと思う。人の世話をする余裕はない。そういう人に頼ることもあまりしないけど。とにかく人に期待すると応えてもらえないのがキツすぎて、ヘルプを出すのもすごいエネルギーが必要なんだよね。一人で抱えないように旦那に頼るようにしてるけど、一挙手一投足が気に食わなくて逆にダメージを受けることの方が多い。わたしがSOSを出しても歓迎してる余裕はないし、こっちが具合悪いと言っても何かできることはあるか?という態度一切ないし、頼まないと慰めることも触れることも何一つしてくれない。今日は歩くのが難しかったので、布団に薬と水を持ってくるように頼んだが、最初に反応してくれるのは娘だし、少し水を布団にこぼしてしまい「ごめん」と言ったらなんか怒ってたし、そんな彼を見てるとただただSOSを出した自分が惨めに思える。何で私はこの人に助けを求めなきゃいけないんだろう?辛い時にそばにいても逆に嫌な気分にさせられるのに、なんでわざわざ同じ家に住んでるんだろう?こんな奴に頼るぐらいなら、一人で助けてくれる人がいないという状況になった方がまだマシだ。と思う。布団に水をこぼしたから何?私なんてお前が自制できずに飲みすぎて、吐き散らかした風呂をつい先日全て片付けましたが?

私は単純に具合が悪い時は毎回苦しいのに、周りの人はまたかと慣れていって放置するようになる。少なくとも私にはそう見える。だから人に頼りたくないのだ。安全基地どころじゃない。むしろ人に頼ることは戦争だ。SOSを求めて、快く助けてくれない人たちを見るのがどれほど辛いことかわかるだろうか。自分が苦しいのに、苦しくなったことでまた人に迷惑をかけている、と思わされるこちらの気持ちがわかるだろうか。SOSを求めずに生きてられるからそんな冷たい態度が取れるのだ。わたしはお前らに頼りたいわけじゃない。でも頼らないという選択をするとそれほそれで身を滅ぼすことがわかっているから、頼っているだけだ。頼らなくて済むなら全く頼りたくない。

人に優しく生きていることが馬鹿らしくなる。今日読んだ本には「相手と対等の関係を作るには相手がしないことは自分もしない」と書いてあった。ありがとう、ごめんね、おはよう、おやすみ、お疲れ様、調子どう?という言葉。旦那を癒してあげようと思う気持ち。そういったものは全て排除することになる。だって彼はしないからそういうこと。わたしの話をよく「そんなこと」と吐き捨て価値を下げて来るが、私も奴が話すことを「そんなこと知らない」と吐き捨ててやろうか。

確かに対等な関係とはそういうことかもしれない。私が彼に優しい気持ちを持ち接している中で、彼は自分のことを第一優先にし、自己犠牲などという発想は一切ない。わたしはきっと自己犠牲をしてるから、相手がそれをしないと軽視されている、愛されていないと感じるのだろう。

誰かの気分を良くしてあげたいという気持ちはただ単に自分の首を絞めてるのかもしれない。

わがままに、自分を一番に、自己中に。人の気持ちを考えるのをやめる。良い子じゃなくて良い。罪悪感を感じなくて良い。

今日もよく生き抜いた。体が思うように動かず苦しい中でよく自分の世話をし続けた。あなたは戦士だよ。この経験をしていない人には辿り着けない場所にあなたは向かっている。あなたは価値のある人。大変だったね。よく冷静に対処した。お疲れ様、今日もありがとう。明日は気分良く過ごせることを願ってるよ。私はあなたが大好き。おやすみなさい。